ぜし論

社会人ガンダマーによる分析と考察 ご意見・ご感想等、お気軽にコメントください!  X(旧Twitter)→@chihahumi3

方法と取り組み方

こんにちは。

今回はガンダムの話ですが少し前置きが長いのと自分の身の上話などがあります。

このタイトルの話をする上で重要なのはまず、私自身が今どうで過去からどうなってきたのかなど、私自身を題材にして行う必要があります。

言わば自己啓発の本のようなものと思ってください。

別にお金を取ろうだとかそういう怪しいものではないのでご安心を(笑)

自己啓発系のトリックを知っている人は最初から鼻で笑って読んで頂けると幸いです。

今回は少なからず私が文章を始めたキッカケとも言える論として回帰を目指したものでもあるため、私自身の自涜そのものであります。

ただ、皆様にお約束させて頂きたいのは、私自身という貴方ではない他人の方法と取り組み方を知る事で、貴方自身の考えに風を吹きこませます。

これを読んで馬鹿にするもよし、なるほどなと考え方の1つとして見ていただくもよし。

読んでみて何にもならなかったということすらもよしです。

むしろクソ長い文章を最後まで読んで「何も得られないクソ論」と言って頂けたなら、それは最後まで読んでくれたの!?って感じで、むしろ私が「こいつは馬鹿なのか?」って思うので(笑)

理解はできなくてもこういったものに触れる機会があれば、これはこうなのかなと自身で考える時間が必ず生まれます。

その機会と時間を大事にしてほしいなと常日頃から思ってはいるのですが、そういうことを面と向かって私から…というのは中々にイメージから離れていたり、私自身が「わかる人間だけがわかればいい」というモットーがある以上、広く伝える理由もないです。

偶然これを目にしてしまったのであれば、少しだけ読み進めてもいいかもしれません。

中身自体は結局ガンダム(EXVS2)のことですけどね。

前置きはもう少し続きますがお付き合いください🙇‍♂️

 

 

前話

最近12年間やってきたことを見直して方法を変えたことで新しい発見がありました。

私は身体を動かすのは嫌いではないのでちょびっと走ったりしてたのですが、今までウォームアップにおいて「歩く」という考え方を持ってませんでした。

ふと、ある日走った時にどうにも走ってる最中に身体が重くなったり足が動かない、別に年々スピードが落ちているわけでもなければスピードに乗れてない気持ち悪さがあるわけでもない。

では、この違和感はなんなのかと自分の影やガラス戸と睨めっこしてフォーム確認。

自分の動きを自分がじっくり見るというのはスポーツをやっていた方にはわかるでしょうが、意外にも難しいものです。

見てみれば別にフォーム自体は崩れていないし、足も自分の意識とは別に問題のあるバテ方をしているわけでもない。

なら、何が問題なのか。

これを考えた時、自分はあくまでも「外見的な部分」に囚われています。

このような「何か調子が悪い」という時に外見的な形に問題があると仮定するのは別に間違っていません。むしろ人間としては正常です。

この問題の解決策がフォームの修正でFAしてから実行した結果、もしそれでも違和感が拭えなかった場合は、それはまた別の原因を考えそうなものです。

次にメンタルが問題だったと仮定しましょう。

自身の内側に問題があったのだと。

この解決策はその場の状況で言えば今日はそういう日なのだと開き直るだとか、そういった気持ちの切り替えがこれにあたります。

では私が考えている私としての思考とは別に、私の肉体に外見では分かり得ない問題があったと考えてみます。

要するに心と身体とは別に解決を求めたいのです。

外側にも内側にも見られない何かしらの要素が欠けていたからこうなったと、冷静な分析をします。

これから導き出されるものは「何かを変えてやってみる」「準備や対策といった現実的にできるもの」がこれにあたるでしょう。

深く考えるならこれらを行なった結果、「自信」としてメンタルにカウントしてもいいかもしれませんが、それはまた別の話になるため、狭義の意としてはやはり分けたほうがいいかと思います。

 

話を戻しますと、私はこの違和感に対して全く別の走り方を思い出して取り入れました。

地面から足を前に運ぶのではなく、地面をむしろ蹴るイメージで走るものです。

いわゆる短距離走やアメフト/ラグビーといった競技に必要な走法で、主にふくらはぎや腿の裏の筋肉を使う、長く走るよりも短い距離に適したものです。

私は今まで走ってから歩く、クールダウンの形式を採用していて歩くという行為にはそこまで比重を置いてませんでしたし、先の短距離向けの走法も比較的長く走ることから使うことはありませんでした。

しかし、長く走る前のウォームアップとしてこの短距離走法で歩くことを採用してからは、時間をあまり取らずに肺と足に熱を行き渡らせることが分かり、自分の身体にとって欠けていたものは「変化(短距離走法)」と「準備(ウォームアップ)」だったと、ひとまずの結論を得られたわけです。

こと、今回の違和感の正体とは自分自身に対する走りのイメージと肉体の同期にズレが生じていたためです。

よく風邪をひいた時に精神は正常に歩いているつもりでも身体は遅れてきていることがありますよね。それと同じです。

私は私の肉体がベストな状態になるよりも先にベストになってしまっていた。それを普段使わない筋肉に刺激を与える走法のウォームアップにより、違和感を感じていた部分を解消したという、まさに今回のタイトルの通りです。

即ち、「本質を疑ったり変えるのではなく、方法によって変える。そして取り組む」

これが長い前置きにおける皆様に伝えるべき今回のテーマであります。

 

一つお断りしておく事項として、悪質な自己啓発セミナーとは違う点としても、私がここでお伝えすべきこととしては、貴方がこれを読むことで何かが劇的に変わるかもしれないであるとか、貴方が生まれ変わるわけではないということです。

少しだけ中世哲学の話をするならイギリスの偉い哲学者であるロック先生は「全ては学習」と仰ります。

経験すれば知識という概念を得られるから、その先に普遍性を得られるのだと。

しかし、現実はそう甘くないです。

経験をした数だけ実際に賢くなれると考えるのは1つ現代人の都合のいい解釈、そしてロックがもたらした病とも言えます。

セミナーといった講義によって外部から知識を得たとしても、得られるものはあくまで「方法」であることを知らなくてはなりません。

生まれながらに個性的な我々はこれから語るゲームにおいても別に他人になる必要はないし、むしろそういう自分を見つけることに意味があります。

先の私の走りに対する違和感への回答はまさしく「自分は〜してみた(みる)」といった私なりの答えであって、他の人は筋トレをして解決を図る人もいれば全く異なることを考えつく人もいます。

今回の論は私が経験した「〜である」という方法を提案するものであって、「〜べきだ」という提案をするものではありません。

この「である」から「べきだ」という答えを相手に与える人間は総じて信用すべきではありません。

これは今回の論の適用先であるEXVS2に限った話ではなく、現実の貴方の生活や考え方として身の回りにおける1つ私からのアドバイスとして、どうか考えてみる機会を得たと思って頂ければ幸いです。

 

とんでもない前置きとなりましたが、ここまで読んで頂いた方にはおそらく以下の文章はあくまでも方法(method)であり、一切の回答ではなく、他人はこうやっているんだなという1つの経験として持ち帰って頂くことができると思います。

 

 

 

方法と取り組み方

まずこういうのは筆者の現状を語るべきです。

これを見てください。

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私の身の回りや上位の人間と比較すれば私の数字は低い部類で間違いないでしょう。

このゲームは概ね60%台から強いプレイヤーという認識が私にはあります。

てか思ってたよりカード挿してやってないんですね私…6000戦くらいはやってるつもりだったんですが(笑)

これを見て皆様はどう思うでしょうか。

まず、これを見た率直な感想が貴方の今いる立場そのものです。

低いと思った方は結構上手い方かそれ以上。

普通くらいと思った方は少なくともゲームは何年かやってて格上に勝てない感じの方。

高いと思った方は現状同じ腕の相手にも五分、乃至はゲームにおける考え方が浅い方。

こんなところでしょうか。

 

戦績とはそもそもなんでしょうか。

単純に勝ち負けの数値化、その比率だけでしょうか。

今作は実はモバイル周りも結構高性能化してて色々見れたりします。

とりあえず私の対戦詳細を見てみましょう。

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(※エピオンが私です)

さて、左1枚目は正直見返すのもゲロ吐きそうなくらいのクソやらかし試合なのですが、こういった戦績の見方ができるようになったのは、VSシリーズにおいてはとってもありがたいことです。

全部解説に回すと文字が勿体無いので要約しますと、この対戦は

①クアンタをボコれてない上にE覚醒を全覚醒で使ってる

百式が順落ちをしていて覚醒もないのに落とせていない

③クアンタの1回目の覚醒が相方のL覚醒を捉え切ってしまった

となります。

この場合は第一義的にエピオンが1回目の覚醒を渋ってしまったことが敗因です。

特にE覚醒という1vs1であれば確定有利がつけられる覚醒を使ってないのはご法度。

エピオンが覚醒を落ちる前に使っていれば、少なくとも相方にクアンタの覚醒がいってもカバーできたでしょう。

これは①が原因で③を誘発してしまったと考えるのが妥当です。

②は百式がL覚醒だった事から先でも後でも落としたところで相手の総覚醒回数は変わらないものの、百式がL覚醒を使って下がっている時間が長いならその分だけクアンタがノーリスクで突っ込める+百式は事故狙いできることに。

百式が一切のリスクを負わずに下がれた場合は低コストが非常に苦しくなるため、ここの判断はエピオンが地雷です。

 

2枚目の画像に行きましょう。

2枚目は1枚目とは裏腹に

①相手の覚醒を先に使わせている

②E覚醒を3回使っている

③最後のヴィダールの覚醒を2人で捌いてからヴィダールに2人で吐いている

所謂理想の立ち回りです。

エピオンのE覚醒は特殊な理由があるものの、一般的な半覚抜けから相手を落とせるかもしれない点では同じで、実際にヴィダールが2回目を吐いたあたりでエピオンも使って相方へ向かわせないなどの工夫をしたと思われます。

何故なら相手が先に2回目を吐いた時点でエピオンがまだ1回目の覚醒である以上は、相手の2回目で大きい被害を受けなければ残りの覚醒回数は相手が先に-1となるため、余程のことがなければ覚醒のない相手に覚醒を持ったこちらが負けることはありません。

故にヴィダールの2回目のM覚醒にはこちらがE覚醒して1:1交換すればよく、最終的に覚醒がない方へ2人で吐けば勝てる結論が生まれます。

 

この2枚の対戦詳細、少しくどい解説が入りましたが、上達するという意味ではどういった方法を用いて取り組むのが良いでしょうか。

恐らく、我々含めた皆様方がこういった試合の後に少なからず反省すべき点が出ると思いますが、それを経験として2度としないと誓ったところでいずれまたやることでしょう。

それが、まず前提です。

人間は学習する生き物で学んだことを実践できる生き物ではありますが、対戦ゲームにおいては「自分」と「相手」は動態的です。

つまり「自分」が対策を積めば「相手」もまた対策を講じられるのが穴といえます。

この部分でまさしく個性が出るのかなと私は思います。

 

とりわけ他人の「〜である」というのはここにきて初めて役に立つわけです。

方法とは私が歩んできた世界では切り捨ての論理として悪しきものでありましたが、知識としての「〜である」はその数だけ役に立ちます。

対戦ゲームで言えば相手の知らないことや予想だにしないことを突いたりする、いわば攻略としての「〜である」は自分自身で試しが利くことに意味があります。

私は先の2枚の対戦詳細において別段ここをこうした方が良かったとここで書くつもりは毛頭ありません。

何故ならそれをしてしまえば私の経験としての「〜である」から「〜べきだ」という言明を吐き出してしまうことになります。

私がいつも1枚目のようなプレイをしているのであればまだしも、2枚目のような好プレーがあるのであれば、それはまだ1枚目だけを言及されるのであれば反論ができます。

これを戦績という面で見るなら「全く同じ腕の相手に50%」と「格上に対しても50%」とでは意味が異なってきます。

それがこのガンダムという戦績からはわかりませんし、現実の数字からも分かりえるものではありません。

畢竟、高い勝率を維持できているプレイヤーとは「勝てる試合を落とさない」ことが秘訣であり、低い勝率となってしまっているプレイヤーは「勝てる試合を落としがち」なのだと思います。

ただ、このゲームにおいてのマッチングシステムはA以上はやや無差別気味であるため、全部が全部これに適用されるかと言えば疑問は残ります。

そのような場合、上手い人は上手い人とやって果たして勝ち越せるのかどうかを考えてみてください。

恐らく技術力が拮抗しているなら、どちらかが飛び抜けて勝つ場合そこには対戦ゲームとしての仕様である「相性」やガンダムに限って言えば2on2という面で差があることになるでしょう。

細かく探っていけばいくほど対戦ゲームにはバランスというものが最終的に存在していることが分かりますし、この場でこれ以上求めるのは本来のテーマから外れるため話を戻します。

 

この話を出すとよく「戦績低い奴は〜」「階級が〜」という輩が出ますが、それは結局のところ50%の違いを説明することにはまるでなっていません。

もし仮にそういう発言をした人がいたとして、その人が50%かそれ以下の人に負けた時、私もよく目にしてしまうのですが、SNSに「◯◯さんに勝ちました〜」というのは流れてこないはずです。だってそういう発言をするなら負けないんでしょうから。

私たちは常日頃から「〜である」から「〜べきだ」という誤りをしがちです。

この場合で言えば「戦績や階級が高いから」という事実を建前に「低い戦績や階級に優位する」という考えは成立しないでしょう。

ガンダムにこそ例えていますが、これは非常に広い射程を持った話であることを伝えたいです。

せっかくこんな駄文を読んでくださっているのですから、読んだことで何かを持って帰って頂きたい、その内容としてはまさしくこれに当たります。

即ち、「できる」と「正しい」は全くもって別のこと。

私の座右の銘でもあります「might is not right」であります。

我々は「たまたま」「偶然」という部分に対して敏感です。

先の例で言えば「たまたま強い人に勝った」事と「たまたま格下に負けた」というだけで喧嘩になったりします。

やれ連勝補正がどうだの言いますが、連勝補正も結局はその対戦する時に「偶然」あったからです。

普通に考えれば連勝補正無しなら格下に負けないことの方が多いでしょう。

しかし、「たまたま」や「偶然」といった自然的な、自分自身ではどうしようもできないような部分に文句を言うのであれば、自分自身もまたそこに文句を言うのは矛盾してしまうことになります。

この例で言えば上手い人が格下に優位するという「偶然の事実」に権利を持ち出すのであれば、上手い人が格下に負けた時にピーピー騒ぐことは「偶然」負けたという事実を認めないことになります。

 

 

方法の問題点

この「偶然」というものは方法を考える上で非常に邪魔となります。

ガンダムを上手くなるには色々な手段が考えられますが、このような「偶然」をまずは捨てることから始めましょう。

最初の方の話に戻りますと「50%の戦績」を自分がどの程度の強さの相手に出せているのを自分自身の戦績詳細から分析してみましょう。

ここで重要なのは「偶然を必然と取り違えてはならない」一方で、「セオリーとしての必然」と「自身の技量による必然」は素直に認めるべきところです。

例えばE覚醒を半覚で使わなかった「事実」を「偶然」として扱うには「方法」の面から否定が入るからです。

勝つためには「E覚醒を半覚で使う」という方法に偶然は介入出来ません。

何故なら方法は偶然を可能な限り減少させる手段だからです。

これをまず理解する必要があります。

難しく考えずに自分はここがダメだなとかここはこうした方が良かったなと考えてみましょう。

確かにそこには偶然があったのかもしれません。

しかし、方法を使うのであればこれから先、同じ偶然は自分の対策である程度どうにかできます。

それが方法であり手段であり、偶然を排除していくという取り組み方です。

最も対戦ゲームである以上はどうしても運の要素を全ては排除できない。

その偶然を減らせれば勝率が少しばかり上がると考えるなら、試すだけでいい方法というものは遥かに敷居が低いでしょう。

 

新しいことを始めたりするのは怖いかもしれません。

上手くいかないことも多いでしょうし、やってみたら実際には勝てた相手にと勝てなくなるかもしれません。

ただ、私としてはゲームというフィクションだからこそ挑戦すること自体に価値があると思っています。

かのウメハラが言った「今これを練習すると勝率は下がるかもしれない。でも、今勝率を下げて練習すれば次は勝率が上がるからやる」。

この言葉私は大好きです。

勝率の話云々ではなく、今これをやれば自分にとって将来的にプラスになるという考え方。

そして何より「自分自身で決めてやる」ことが何よりも大切なのだと言葉を送られていました。

方法と取り組み方はまさしくこれに該当します。

「〜である」という事実をどう自分に取り入れて取り組むのかをプランニングする際、ドーピングのように一瞬だけ強くなりたいのか、孫悟空の修行のように取り組んだ中で自分なりの答えを出したいのか、取り組む前段階で意識の差があると思います。

別にどちらが正解というわけではなく、方法というものはどちらにも答えを用意できている。

その中で自分の実になるものはどちらなのかというのは、人の向き不向きという別の面に答えを委ねられてしまうことこそ、この「方法」という手段において最も重大な課題と言えます。

 

 

長所と短所

ゲーム以外においても言えることですが、皆さんは「長所を伸ばすタイプ」か「短所を補うタイプ」かどちらでしょうか。

かのイチローは「自分の長所は何であるか、自分が分かっているかいないかが大切。力があっても芽が出ないのは、自分の良さを十分に分かっていないから」と言います。

 

私自身の話に少しお付き合いください。

まず、私は後者の人間です。

それは私の長所が短所を減らすことだからという身もふたもない理由だからであります。

私は特別才能がなかったので練習して出来るようにする以外に道が無く、プレイスタイルはそのままに機体と立ち回りは変えて変えて苦手な部分をテクニックで誤魔化してきました。

今ではズサキャンと横サブで陣地取りゲームしかできなくなりましたが、その根底にあるものとは最低限「自分がこれが今は強いと思ってる。だからこれを練習する」プロセスは経ています。

イチローの言葉は一見自分の得意なこと、つまり数値上抜けているものをひたすら伸ばし続ければいいように聞こえますが、それは違います。

目に見える長所を伸ばすことが当人にとってベストであるのかは全く別の話です。

これは何回も言うようですがイチロー「〜である」を「〜べきだ」として受け取っているならそれ自体が間違いになります。

取り組み方においては方法の「〜である」から自分の思考に適した「〜である」に落とし込む必要があります。

言い換えれば自分の納得する答えを得るための方法なのです。

 

長所/短所というものはそもそも何なのか。

プロのスポーツ選手がひたすら長所を伸ばして短所を放置すると思うでしょうか。

この問いかけには我々が考えている前提とは違うものが内在しているのだと、私は思います。

極端な話をすれば野球選手で当たればホームランだが、当たらなければ三振という選手をあなたが監督なら取るでしょうか。

私は野球の経験があまりないですし、実際のところこういった選手を球団が採用しているかはわかりません。

しかし、この極端な例を出すことで皆様に考えて頂くことはできそうです。

 

この長所と短所から導き出される最後の論点としては「本質論ではなく、方法論に落とし込む」ことが大切です。

この長所と短所の問題は主に自身が短所だと思っていることに対して、「そもそも」という論理を吹き飛ばした強弁的なことばにどの程度耐性があるか、またそこから再び動き出すことができるかになります。

これは大体他人から言われることばに対して挙げられる論理ではありますが、自己肯定感を高めるという目的においては、ガンダムでも役に立つし一人称でも問題ありません。

簡単に言えばメンタルコントロールやアンガーマネジメント、それらを括ったものと考えてもいいでしょう。

自分の何かの失敗に懲りた時に「自分はなんてダメなんだ」と思うことは前に進む力を人間が想像している以上に妨げます。

例えば「俺はいつまでこんなクソみたいな被弾をしてるんだろう…」と自己嫌悪しがちな人は、被弾以外の些細な事にも同様の状態を誘発しやすくなり、結果として自分の長所すら短所として見てしまうことがあります。

そういう時のミスは次のミスに繋がってしまい、一般的に言われる負のループとして形成されてしまいます。

即ち、上達を考える上ではミスを恐れないことがまず第一の条件になります。

しかし、それは本質を変えろといっている他ありません。最初から人間そんな簡単に気持ちを切り替えられるならメキメキ上手くなります。

問題はこの問題を自分でどう解決するかです。

提案できる方法としては

①失敗をメモして、その時思ったことを書く

②次にその失敗と内情を自分ではない他人が起こしたものと仮定する

③自分はその他人を見て極めて公平に、しかしネガティブな考えや批判的なことは避けて、あくまでも客観的な事実を書く。最後に自分を責めるなと付け足しておく

④ ①〜③を繰り返し、ポジティブな意見を反復させる

 

これを繰り返すことで失敗とは抽出して客観的な判断で事実を確認できることになります。

言うなれば他人がやった失敗には◯◯のような解決策があるのではないか、という安直な意見が人は普通出るもの。

とりわけガンダムなら低コストで自分が先落ちしてしまった場合と他人がした場合とでは、後者の方が絶対に心の余裕があるでしょう。

その心の余裕を使って客観的な事実を確認することは、結果的に自分の自己肯定感を高めることに繋がるというものです。

少し文章では難しいかもしれません。

まず、自分のミスを紙に書き出してみて、それを他人がやったらどう思うか、それを考えてみてください。

1つの方法論としてこの「自分で自分を客観的に肯定する」ことは人間関係や自己分析に大いに役に立ちます。

 

これを他人と解決すると考えると他のゲームよりも2人が最小単位である事から、僅かながら解決を図りやすい、もしくは解決が早まるかもしれません。

相方の人が先の自己解決プロセスの③を担当してくれるからです。

ここで少し前の話を思い出してください。

例えば相方の人が実際に対戦で負けたりして自己嫌悪してる時、それを見た自分は少なくともその相方より上手い前提があった場合、一体どのような声をかけるべきかを考えた際、その相方より上手いからという事実に即した言葉を人はかけてしまいがちです。それはダメなのです。

具体的に言えば、「あそこが悪かったから次はこうしてみないか」という方法ならOKですが、「お前は〜だから」とか「そもそも〜」という本質を疑うものは、先の例に挙げた「戦績低いやつがー」という人とその時点では全く同じです。

これは人生において付き合う人間を選ぶといった話に置き換えることもできますが、自身を主観によってのみ批判する人間とは付き合う必要はありません。

そんな人とやってたら上手くなるものも上手くなりません。

何故なら自己肯定をして前進しなくてはいけない時に自己嫌悪を加速させて後退させるのですから、なんだァ…テメエ…と喧嘩になってもおかしくありません。

喧嘩になるならまだいいですが、喧嘩にもならずその相手の言葉を受け入れてしまうなら、それは少し己を見つめ返さなくてはなりません。

他人から言われたことだけで生きるなら最初から自己嫌悪なんてする必要はないです。むしろ「じゃあ勝てないのはお前のせいだろ」くらいに思うのが正解です。

 

人間関係と上達 〜気魄と合法性〜

少なくともゲームをやるというのは、理由はどうあれ、自分がやりたいからやってるものだと私は思ってますから、他人の意見は意見でしかないこと、自分の意見はハッキリと持つことが大切です。

人生において、付き合うべき人間とは「根拠のない自信」を与えてくれる人です。

あくまで自信を与えるだけで根拠のない事実を教えてはいけませんよ(笑)

自己肯定感を高めてくれる人は③で仮定したような「客観的な意見」と「自己責任の追求の制止」を促してくれる人です。

勘違いしがちなのは「自分にとって優しくない人間/意見」を排他的に捉えるのはダメです。

何故なら、前提として自分の失敗がある、それを解決するための方法に対してそのような考えを持つのは、自己嫌悪よりも責任転嫁として上達は見込めません。

あくまでも客観的な意見に指導的立場が入っていたのであれば、それはその人の経験からくる「〜である」よりもセオリーとしての「〜である」、即ち、上達するために通る必要のある方法であることになります。

実際、確かに相方のミスに誘発した自身のミスというのは存在しますが、2人でやるゲームである以上、そこを割り切れるかどうかがこのゲームの負のループから抜け出せるのキモになっていると思います。

 

社会生活においてもこれは同じです。

最近、私自身も現実で指導を担当させて頂く機会があったことも幸いし、自身を省みれた過程を元に本論を書いてます。

良い先輩、良い年上、良い上司。

それらはただ厳しいだけではダメなのです。

昨今では◯◯ハラスメントという言葉に置き換えられますが、ハラスメントとはまさしく「事実に権利を認めてしまった結果」起こっているものです。

ですが、社会生活においては厳しさと優しさ、即ち、飴と鞭を使い分ける必要があります。

どちらか片方だけではダメ。しかし、両者を上手く配分することこそが上に立つものとしての手腕であるとも言えます。

少し昔話をしますと

ある王様が教会の人に戦利品で持っていった礼拝用の壺だけは返してくれないかとお願いされる。

王様は構わないと仰り、部下の兵士に「壺は私が貰いたい」と言いますが、ある兵士が壺に斧を突きつけ「王様、この戦利品は平等です。クジ引き以外で手に入るものには触れてはいけません」と言い放つ。

王様は無礼なヤツだとは思いつつもグッと堪えて、クジ引きという正当な手段を持って壺を教会の人へ返却した。

1年後、王様が兵士の武器の手入れが行き届いているかを確認する行事において、壺に斧を突きつけた兵士の武器を「手入れができていない」と地面に投げつける。

兵士はそれを拾おうとするが、王様はその瞬間、男の首を刎ねた。

それ以降、王様に無礼な態度を取る人間は一切現れていない。

 

これは少しばかり過度な例ですが、王様は自分が立場上、お前らよりも上の人間なのだと言うことを軍事イベントで知らしめたのです。

会社で例えるなら所属部署の部長席に呼び出されて叱責されたりするのがこれにあたるでしょうか。

難しいのは早すぎるとパワハラ、遅すぎると舐められるということ。優しすぎても同様です。

気魄と合法性という話の一端ですが、会社という空間の中においては権利が確かに存在している。この話の王様で言えば戦争中や軍事イベントだけ権利がある。

その権利をどういう演出で行使するかによって相手に植え付ける印象が異なってくるわけです。

そして、最も重要なことはこれを続けてしまうだけでは「事実という権利」だけが先を歩いてしまい、嫌われる上司になってしまうでしょう。

立場が上ということを教えたのであれば、それから先は「尊敬される人間」になるのが一番手っ取り早いです。

学術的な言葉で言うなら「権利の権威化」がこれに当たります。

つまり、「あの人の言うことは聞いておこう」といった納得の元、自ら進んでそれを受け入れてもらうのが実際はベストです。

 

何故このような段落を設けたか、コンテクストとして矛盾していないかと思った方はお察しがいいといいますかなんといいますか。

私が何度も何度も方法論として語ってきたこと、即ち、「事実に権利を認めてはいけない」「他人の〜べきだは疑え」という2点を覆すかのような擁護をしたのかと。

それは私も「人に教える/伝える方法」として実践していることには、主観が入ってしまっている事を認めざるを得ないからです。

どういう理屈を経ても、他人に何かを客観的な意見として伝えようにも、人は絶対的に主観というものが入り込んでしまうことを否定できないからです。

勿論権利の権威化なんてものは概念としてのものであり、正当性を確かに主張できるものです。

しかし、私がここで文字として書くということは、テクニックを知っていれば誰でも権威的な意見として相手に教え込む事ができてしまいます。

一度権威となってしまったなら自己肯定感が低い状態と何も変わらない、相手の言う事は正しいという前提ができてしまうのは、やはり事実に権利を持たせることになってしまいます。特に初心者からすれば余計にそう感じるでしょう。

私も嘘をついてるつもりはないですが、私の言っている事を疑う合理的な根拠としては、この絶対に主観を取り除けない部分が挙げられます。

 

上手い人が言うことは正しいというのであれば、その「上手い人が言うことが正しい」という事実は「一体いつ(when)から」そうなのかを聞いてみてください。

恐らくその人は「上手いから正しい」という事実の権利しか認める事ができません。

このトリックは現実世界においても非常に巧妙な手口で存在しています。

最初の方で語ったロックがもたらした病というのはこれに当たります。

自己啓発セミナーといった講義は相手と自分の距離が離れているため、より一層そういった権威を感じてしまいがちです。

だからこそ、そのような自己啓発という「方法/手段」を経ていれば自分は変われるのだと幻想を抱いてしまうわけです。

ガンダムも全く同じです。

他人の意見をひたすら聞いてやって上手くなった人は確かにいるかもしれません。

しかし、それは世間一般的に言えば希少な例と言わざるを得ないでしょう。

私たちは私たちの知り得る範囲のことでしか上手くなれません。

それを外部(SNSや他人との意見交換)からの知識で少しずつ広げていくのです。

万が一その希少な例を棚に上げて意見を言う人がいたら「それは過度の一般化ですよ」と優しく教えてあげてください。

 

 

最後に

長々と方法と取り組み方について語ってきましたが、ガンダムにはあまり触れてなかったなと見直して思いました(笑)

しかし、思考の手順や「方法」という自身の本質とは別に解決を考えるやり方は、ガンダムに限らず生きる上で自分を楽にさせてあげられます。

あまりガンダムをしている周りにはこういった事を考えられる方が少なくとも私の周りにはいなかったので、結局のところ私も自分で自分の肯定をして少しずつ前進してきた人間というのは、この論を見て頂いたのであればうっすらわかるかと思います。

勿論、アドバイスをくださった方やオフラインの時に対戦してくれた方には感謝しておりますが、上達する上で必要なのはロックが言う学習であると同時に、その学習とは方法であって、方法とは実際の答えからは1歩引いたところにあるもの、加えて答えとは「〜べきだ」を疑う取り組み方から得られるものと帰結いたします。

 

私も同じように自分自身を肯定していく中で度し難い「矛盾」にぶつかることがあります。

それは先の通り「他人に教える/伝える方法」から「主観」を絶対的に取り除けないというりことです。

私も結局は客観的に見たと自称する主観的意見を皆様の目に届けているだけであり、また事実に権利を認めさせるようなテクニックを使っている事を一切否定いたしません。

ガンダムにおいても自分が正しいと思っていることと他者の意見がぶつかった際、自分の信じている方が正しいということには合理的な根拠を求めることができても、他者の意見が絶対的に間違っている理由にはならない時があります。

エピオンであればズサキャンをするのが最適解なのか上から攻めるのが最適解なのか、結局のところ「自分に合った方法」を選ぶ、そしてそれを継続的に精査→実行していく必要があります。

即ち、自分の意見と他人の意見から自分自身を「止揚」させていくことこそが、ガンダムの「私なりの」楽しみ方であり、人生を少しだけ楽しくさせる「方法」であり、方法と取り組み方の本質に当たるものなのではないのかと、1つの説を唱えさせて頂きました。

 

合計文字数14000字近い過去最長となってしまいました。

ここまで読んでくださった方、大変お疲れ様でした。

私としても数年やってきて自分の頭の中を整理できたのはスッキリです。

 

次回は映画の感想とかになるかもしれません。