ぜし論

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教えること〜難しさと重要性〜

毎度どうも。

最近コメントの設定にご指摘貰って改善しました。

はてな様のID持ってないとコメントできないのがデフォかと思いきや、私の方の設定で変えられたみたいです。申し訳ありませんでした。

恐らく反映されてると思いますので、どうぞバンバン書き込んでくれると励みになります😤

 

はじめに

書籍にもよく見かけるタイトルで恐縮ながら私にも他人に教える機会というのはあるもので、人間誰しもが1度は経験してその難しさを体感しているのではないでしょうか。

仕事、スポーツ、ゲームetc…其々の分野において上達を図るには他人から教えてもらわないとならない部分はどうしてもあるわけです。

そんな教わらないとわからない部分を逆に自分が教えなくてはならないとなれば、教え方について悩んだり理解してもらうための工夫は頭を抱えますよね。

重要だったら大切だったりすれば尚のことです。

 

今回はそんな前置きから私自身も人に教えるのが下手くそだなぁ…という自覚もある上で、私自身の向上も考えた教え方についてまとめたものです。

文字に起こすことで見えてくるものもきっとありますから、本屋で数千円の教え方自己啓発bookを買うなら無料のこの記事を読んでからでも遅くはないでしょう。

むしろ推薦すべきはこの記事の後に他の教え方教材を読んでみてほしいです。

これはぜしか本人からの言葉となりますが、これらの方法論の文章や本は必ず2〜3冊擦り合わせて読まないと効果がありません。

書く人によって大切だと思ってる部分が異なったり、本の容量的に切らないといけない箇所というのはどうしてもありますので、それらの補完として別の本を読むというのは社会系のジャンルでは必須です。

逆に勉強の参考書とかは合う合わないはあれど内容にそこまで差異はない特徴があります。

 

 

なぜ人に教えるのは難しいのか

根本的な部分から考えてみましょう。

言ってしまえば相手は自分ではないからです。

身体の作り、考え方、得手不得手、時間の感じ方などなど…挙げたらキリがありませんね。

何にせよ相手はナマモノ。

入力に応じた動作をしてくれるプログラムとは勝手が違うわけです。

当然のことながら教えてる最中には意外と忘れがちなことです。

そして、相手は自分ではないことにどれだけ根気強く向き合えるかが教える才能と私は考えています。

 

 

教えることは0を100にすることとは異なる

私も最近になって気がついたことです。

広く捉えれば相手は自分じゃないことの意味と同じですが、教えたからといって100%コピーになるわけではないし、人間の構造的にもできることとできないことはやっぱりあるんですね。

一番わかりやすいのは東大に入った人が教えたからといって東大に入れるわけではない。

教え教わるという行為は直接的な結果にはならないということです。

 

その前提を基に教えるという行為を考えると、0から始めるとしても教える側が相手に与えられるものはいいとこ50%。

残りの50%は相手が引き上げないといけません。

99%教えたと仮定しても教わっている側の存在は切り捨てられないため、残り1%はやはり相手の力が必要です。

教える側はもちろん引き上げるためのアドバイスはできますが、相手の能力を手術や超能力で引き上げられない以上、どこまでも教える側は相手に依存することは確かです。

 

イメージが難しい人は売っているアサガオの苗を仮定してみてください。

お店で買った苗は苗としてはお店がお世話をしていますが、花を咲かせるためには自分で水をやったりしないとダメなんです。

だからお店側は苗を買ってくれた人に花を咲かせるためのコツなどは教えてくれます。

しかし、わざわざ毎日家に来て水をやる等、花を咲かせるサービスまでは存在しません。

私たちは教えてる時、気がつかぬうちに他人の苗に水をやったりしてしまう。それは教える側としてはやってはいけないことです。

相手に考える時間を与えて実際にイメージの元やってもらう。

その後、徐々に助言という形をとっていくことが必要なのです。

 

これはある意味で教える側の問題となりますが、0から引き上げるために利用した手段や方法は今後相手側の前提になりがちです。

苗の例を再度使わせて頂くならば、売っている苗の品種は1つしかないと思わせてはいけません。

あくまでもアサガオの育て方だけ(特定の◯◯)を教えてほしいという相手にとっては余計かもしれませんが、これを伝えなくては相手の考えを固定しかねません。

概ね特定の◯◯を知りたいという方はある程度の予備知識を持ってる場合が多いですが、念のため最初のうちに相手の知識を相互確認しておくと教える側もプランを立てやすいのでオススメです。

 

 

相対的な効果を急かない

私的に自分の不甲斐なさを感じる点です。

教えた時間に対して明確に規定された成果は約束されていません。

当たり前のことですよね。

相手ができないことにイライラする気持ちは大変よくわかります。

教えてる側も人間ですからこれも当たり前です。

極論を言ってしまえば教えることを決めたからにはそれに耐えることも役割なんです。できてない私がいうのはおかしい話なんですが(笑)

何を教えるかによって教える側の労力も関わりますが、イライラで怒るといった相手側への一方的な行為だけは気をつけた方がいいです。

できないから怒るは生産性がありません。

何故できないか、何が原因なのかを考えることが教える側の理想的な務めです。

基本的に教え教わるという行為の形式によって方法が異なります。

1:1はレスが早い分イライラも溜まりやすいですが、1:6や1:10といった講義形式ならばレスは大体が一通りの説明を終えた後になるので溜まりにくいです。

これは複数人いる際では1人のレスに合わせてしまうと他の利益や参考に影響が出てしまうため、例えば講義で騒ぐ奴はつまみ出すといった処理は他にとっての利益にもなることから正当性も保たれます。

大学の講義では単位を人質に権力を行使するのが教授なので、教授をイライラさせて強制力による単位の喪失をしたくなければ大人しく受けることを大学生の皆様にはお伝えしておきます(笑)

講義終わりに個別に質問がされた場合は1:1の時と変わりありません。

 

 

要するに〜の使い方

要するに〜は便利な言葉で、教える側にとってのアッラーのような存在。

要するに〜を使うと今までの説明を簡易的にできます。

これは悪いとか間違っているとかではなく、用法要領を正しく守って使うと非常に効果的というものですね。

 

要するに〜とはあくまでも教えてる側の理解に準ずるものであって、相手からするとかえって混乱を招いてしまうこともあります。

この要するに〜という言葉で省略しているのはAに対するB即ち原理原則といった理屈の部分に該当します。

この言葉を使うのであれば本来よりも多少詳しく教えている場合の時が効果的です。

逆しまには理屈を省略する以上、相手が要するに〜の手前である理屈を理解していないと話のこじれが必ず出てきてしまいます。

 

相手の躓いてる箇所が知識的な部分であれば要するに〜は控えた方がいいでしょう。

逆にスポーツのようなポイントな把握で改善ができるものは簡略的に教える方が良かったりします。

学問的な内容と動作的な内容で使い分けるようにすると教える際の効率化に繋がります。

一番賢い方法は当然原理原則の後に要するに〜とまとめることですが、時間との兼ね合いも考えると意外にも適切な使い所を見極めるのには教える側の熟練が必要になるなと思う言葉です。

 

 

褒めること怒ることはいいことか

これはどう思われますか?

恐らく答えはありません。

私は良いものは良いと言うタイプの人間なのでバンバン褒めてしまいます。

人によっては褒めれば調子に乗ると考える人もいれば最後に褒めれば良いと考える人もいるでしょう。

 

自分に置き換えるとどうでしょうか。

私は教えてもらって褒められたいとは思いませんが、一定の評価は受けたいとは思っています。

ここは良かったけどここは悪かったのような言い方ですね。私はこれが望ましいです。

しかし、相手は自分ではない。そして褒められたいか?と聞いて素直に答えてくれる人はいる…んでしょうか(笑)

ここは難しいところです。

当たり障りのない手法としては最後に褒めてあげるのがやっぱりいいと思います。

モチベーションに直接繋がる方もいますし。

私の数少ない人生経験から見出した浅はかな考えではありますが、悩むくらいなら褒めてあげましょう。

褒めてやる気を失う天邪鬼だったら話は別ですが、相手の存在を認める1つの演出としての称賛行為は必要になる場面があると私は考えます。

 

逆に人を指摘できない、怒れないというのは問題でしょうか。

教える側にとって一切の指摘をしないということはまずありません。

どういう形のアドバイス、指摘が適切かどうかを考えるのは、これまた非常に労力を要するものです。

当たり前ですが相手のことを考えた上で言葉を選ばなくてはいけませんから、その人の改善に繋がる指摘を心掛けなければなりません。

私は人へのアドバイスや指摘は教えるという行為で最も経験の差が出るところだと思ってます。

 

悪いところを悪いと指摘するのは正しいことです。少なくとも教えている側の判断であれば。しかし、何故悪いのかを相手に考えさせられるかどうかは、それまでの教わる側への配慮とは別に教える側の権威や手法を試させられます。

言ってしまえばこの人の言ってることは正しいかもしれないと相手が受け入れてくれたら成功なんです。

アメリカのクレームの付け方が大変参考になりましたが、カーナビの調子が悪いレンタカーに対して「この車はカッコいいし気に入ってる。最高さ。でもどうやらカーナビの調子が少し悪いんだ。よかったら見てくれないか?」という言い回し。

これは先ほど私が褒めるならこう言って欲しいと書いた良いものは良い、悪いところは悪いということに他なりません。

これは語順が大切で、相手の悪いところを指摘する際にはまず良いところを先に言っておくことで、次に言わなくてはならない指摘の受け入れを緩和する作用があり、割と万人に対して有効な手法になります。

教えている際に人の悪いところを指摘したり注意が苦手な人は上記の言い回しをテンプレートで用意しておくと中々に便利です。

 

少し長くなりましたが、褒めることと怒ることは配分と緩衝剤を挟めるかどうかなのです。

飴と鞭という言葉がありますが、そこまで鞭を必要としないカジュアルな教えを求められているのであれば、やはり先のアメリカンな言い回しが無難です。

そこまで悪いところが無かったならば良かったところを更に良くできるアドバイスを1つ送ってあげましょう。

教わっている側の長所を伸ばすキッカケになり得ますからね。

 

 

教えることで何が得られるか

これはよく言いますが自分の振り返りです。

教えることは自ら初心に帰ること。

新しい発見や想像は意外にもスタートラインからの方が見つけられたりすることがあります。

勿論教えたからといって100%の見返りがあるかというのは先の「相対的な効果を急かない」という項目に違わず不確定です。

あくまでも教えることで何かを見出すキッカケのようなものと考えるといいでしょう。

もしかしたら教えてる相手の何気ない一言一動作が自分の考えに風邪を吹き込ませるかもしれません。

 

私は結構教わるのが好きな方ですが、最近は教える機会もあると書いたようにそちらの方が多かったりするわけで、自分の教え方には不甲斐なさを感じています。

恐らく教え方が上手い人は他人の理解できる言葉の選び方や語順が適切なんだと思います。

相手に合わせるのが上手といってもいい。

教えることで自分が振り返るためには相手に伝わらないようでは意味がない、ひいては相手の上達を図れないとダメなんです。

知りたいという知識を教えることと誰かを育てることはまったくもって違いますし、結局のところ教える側に育てる気持ちがないと本当の意味で良い教え方はできてないのかなと思う時はあります。

これは先の長い話なので私自身が結論をいずれ出せたらなと思うところです。

 

 

まずやってみよう

教える機会があったら臆せず挑戦してみてください。それが最も教えることに対して自らの勉強になります。

勿論最初に教えた人にはわかりにくい説明をしてしまうかもしれません。間違った説明をしてしまうかもしれません。

ですが、それを経験しなければ次に活かせる準備に繋がらないのだけは確かです。

自分が勉強し直したり言葉だけではない身振り手振りや資料の用意など、できることは手間をかけるなら幾らでもできます。

教える内容によっては実演もできるでしょう。

日常生活で人に教える機会はそこまで多くはないかもしれませんが、少ない機会しかないのであれば尚のことスマートに決めたいものです。

 

私から最後に言えるのは忘れちゃいけないのは相手が生の人間ということです。

逆にそこさえ履き違えなければ大丈夫だと私は思ってます。

教える側が威張って「なんでできないの?」とパワハラ紛いの言葉を投げかけることは現代社会だと向かい風という勉強にもなりますし、イライラせずにアドバイスや指摘を受け入れやすい語順で提供するという訓練にもなります。

教える側が教わっているとはよくいったもので、見る視点を変えて教える側も大変貴重な体験をしていることに気がつけたら、今回の内容にも少しは意味があったのかなと私は思います。

 

 

 

 

 

・さいごに

お疲れ様でした。

今回は詰め込みすぎたかも…ということで突貫工事感は否めませんね…申し訳ございません!

ヤークトアルケーもそろそろ出ますし、FBぶりにジオを練習し始めたのでガンダムも熱くなってきました😤

次回は最近コンテンツの展開が著しく行われているアズールレーンというゲームを題材にする予定です。

その次はちょうどガンダムがアップデートされますから新機体のアレコレとかになると思います。

それでは今回もありがとうございました😊

また次回お会いしましょう。